革新悲観論について

革新悲観論についての大きな記事が出ていた。結論から言ってしまえば、仕組みが革新を促進するようにできていないので、停滞するのも当然だ、ということだろう。資本主義の下で、かつては、革新が、そして発明が、そのまま金銭的な報酬に結び付きやすかった。情報の広がりは限定的であり、その知識が広まるまでに十分な利益を確保することができたからである。しかしながら、技術進歩は情報の拡散速度を急速に早め、技術開発に見合った利益を確保する期間をとるのが難しくなってきた。そして、資本主義は、その仕組みとして、革新よりも利益を追求する形になっている。つまり、革新と利益に直接的な関連が無くなれば、当然革新を進める推進力というのは無くなるのだ。記事中で革新の停滞期だと指摘された1970年代から現在までの技術開発のトレンドがどこを向いたかを見れば、それは一目瞭然だ。つまり、実体的な技術ではなく、より利益と直接的なかかわりがある、金融技術の革新が急速に進んだという事実だ。ここからわかるのは、現在の資本主義体制は、すでに革新を促進するためのエンジンとしてはほとんど機能しないほどまでに、十分に飽和的な技術水準に達してしまったということだ。

これに対応するためには、まあ利益と革新を両立する方法を何とかして考え出すか、どちらがより重要か決めてそちらを促進するように制度を整えるか、どちらかしかないのだろう。前者はかなりハードルが高いと言わざるを得ない。技術が元をとれるほどの形にするには、現在考えられる限りでは、知的財産制度をさらに充実させ、法によって革新を補強することが一番ありえそうだ。しかし、記事中でも指摘されているように、重要かどうか判断もつかない特許は山のように積まれ、その事務処理費用はすでに許容範囲を越えそうだ。そして、これは明らかに市場原理に反する段階に突入しつつある。市場ではなく官僚がどの技術に価値があるのか決めているからだ。よりましな案があればよいのだが、今のところその見通しは立っていない。

優先順位を決めるうちで、利益優先を続けるのが一番楽な方法だ。何も体制を変えることなく、このままいけるところまで行ってしまおう、というものだ。ここまで何とかなってきたことだし、技術革新もまだそれなりに続いており、現在はその波が少し衰えているだけの段階だと考えるのならば、十分に合理的な考えなのだろう。ただし、それはその波の理屈が十分に解明されていない以上、どこで何が原因で破たんを迎えるのか予測できない、まさに神頼みの非合理的な方法だと言われても仕方がないだろう。

それならば、革新を優先するような方策をもう少し模索してみる方がより合理的ではないか、というのが私の立場である。利益を生み出す資本主義の仕組みは、人間の本性にしっかりと根付いたとても合理的な方法だ。問題は、その生み出された利益を革新を起こすような生産的な投資に結び付ける仕組みは、それほどにうまく機能しているとは言い難いことだ。なぜかと言えば、この体制の下では、革新の先にはまた利益が来なければならず、逆に利益の先に革新が来ることには何の動機付けもなされていないからだ。つまり、リスクをとって革新をすることよりも、使わずにおいておく方が合理的な判断なのだ。ここまで書けば、私がまたいつもの通りのことを言いたいことはもうわかると思うが、資本主義に革新のエンジンを組み込むためには、利益をためることよりも革新のために投資をすることの方がメリットがあるという仕組みを作るのが不可欠ではないのか、ということだ。つまり、貨幣から使用料を徴収することによって貯蓄の機能を取り払い、計測機能だけにしてしまって、利益を継続的に出す手段は革新しかないという形を作ることだ。私の目から見れば、これは前2案よりもずっと可能性が高そうな気がするが、いかがだろうか?

140文字と空飛ぶ自動車のどちらに価値があるのか、などというのは誰が考えても分かりそうなものだが、そこに絶対的価値である貨幣価値が絡むと、無料の140文字と何億ドルもする空飛ぶ自動車では、選択肢のあるなしに関わらずだれもが無料の140文字を選ばざるを得ないというのが現実なのだ。このあまりに不幸な状態こそが、今革新の力を持って解決すべき最も重要な課題であると言えるだろう。
 

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