チヌア・アチェベ

アフリカの偉大な物語作家のチヌア・アチェベが3月21日に82歳で亡くなった

少年時代にチヌア・アチェベは、とても読書が好きだったので、彼の友人は彼を「辞書」と呼んだ。彼は、南部ナイジェリアのウムアーヒアの政府大学の図書館で生活し、ロバート・ルイス・スティーヴンソン、チャールズ・ディケンズ、ジョセフ・コンラッド、Y.B.イェーツをむさぼり読んだ。「それらは、我々や我々のような人々ついてではない。」彼はのちにそのやわらかで慎重な声で言ったものだった。しかし、英雄的な白人の男たちがぞっとするような現地人と戦いやっつけるジョン・バカンの物語でさえも、彼を困らせるよりむしろ興奮させた。それはすべて、行間を読み、質問をし始めた日のための、「素晴らしい準備」だったのだ。

その日は早くやってきた。彼の最初の小説「崩れゆく絆」は、彼が28歳だった1958年に出版され、アフリカ人の見方でナイジェリアにおけるヨーロッパの植民地主義を語った。その英雄オコウォンコは、彼と同じく南東部のイボ族からやってきた、戦士でレスラーで知恵を持った男だ。その本は、すべて堂々とした英語で表現された、アチェベ氏も覚えたことわざとたとえが豊かだった。貧しい少年オコウォンコは成長して、3人の妻、8人の子供、そしてヤムイモの詰まった二つの納屋を持った。しかし、その本は、キリスト教のミッションと地区委員の到着によってイボの文化が完全に破壊されたかを示す、自殺した彼の死体の発見で終わる。

「崩れゆく絆」は1,200万部以上売れ、絶版になったことがない。そのために、「私のような人々、つまりチョコレート色の肌を持ちポニーテールを作ることのできない縮れた髪の女の子が、文学の中に存在しうるとわかった。」と、アチェベ氏のもっともよく知られた文学的被保護者のチママンダ・ンゴズィ・アディーチェはいった。彼女のような若い作家たちは彼を訪ね当て、彼がアフリカと著述について語った時近くで学んだ。

だらりとしたベレー帽の下で腕白な笑みを浮かべた小さな男の彼は、幾分かは湧き上がる怒りを抑えるために、謎かけをしてからかう。それから、40代半ばで、彼はマサチューセッツ・レヴュー紙にアメリカの学会に衝撃を与えたコンラッドについての評論を書いて、アクセル全開にした。「本当の問題は、その世代にわたる姿勢が世界で育ち、そして育ち続けているアフリカとアフリカ人の非人間化だ。」彼は書いた。

「闇の奥」を読み直すと、彼がコンゴ川を煙を立てて上るマーロウの船に彼は乗ったことがないだろうとはっきりした、と彼は説明した。彼は、コンラッドが、しかめっ面をして川岸を飛び跳ねると書いたアフリカ人の一人だった。彼は、その優越的な浮遊した過去の時点の見方で、彼の人々、どんな人々をも描くことが、いかに間違っているか、ひどくひどく間違っているかを認識した。彼の評論は、英文学におけるコンラッドの位置を変えた。それ以降、ヨーロッパ人とアフリカ人は並んでいた、と彼らはしばしば教わった。

アチェベ氏は大学で物語を書き始めたが、1950年代の終わりにナイジェリア放送サーヴィスで働いた。彼の4作目で軍事クーデターについての「人民の兵士:A Man of the People」は、予言的だった。それは、1966年にイボ族が離脱して彼ら自身のビアフラ共和国を作ると脅した時にナイジェリア軍がその国の支配を握る数日前に出版されたのだ。それに続く数年間、彼はますます政治化し、ビアフラ戦争の努力に参加した。その紛争が終わった時、彼は、そのほとんどをアメリカでの、教えることに戻った。遠くから、彼はナイジェリアが軍事的支配に屈服するのを見た。

「独裁者崇拝はとても厄介者だ。」彼は、軍事独裁者の下で生活する3人の友人についての(部分的にナイジェリアピジン語で書かれた)風刺喜劇である、1987年の小説「サヴァンナのアリ塚」の中で書いた。そのような支配者にとって、彼のような物語作家は活発な危険だ。「彼らはすべての支配への挑戦者を脅し、彼らは国の中の、教会やモスクの中の、政党議会の中の、大学の中の人間精神の自由への権利を奪うのだと怖がらせた…。」文学は彼の武器だったのだ、と言うのを彼は好んだ。

彼の亡命は、1990年の自動車事故で下半身まひになってから、恒久的なものになった。彼はアメリカに住み、そこで教えた。四半世紀以上もの間、2007年に国際ブッカー賞を受賞するまで、彼は出版をやめた。その省は、彼を再び駆り立てたようで、立て続けに2冊の本を出した。一つは評論集で、2012年のもう一つはビアフラ戦争の回顧録だ。どちらの本も、アフリカの非人間化に対する彼の抵抗を補強した。

けれども、小説家として、彼は自身を偉大な西側の大砲の一部とみていた。彼の本の題は、彼の英雄に敬意を表した。「崩れゆく絆」(Things Fall Apart)はイェーツから、「もはや安楽なし」(No Longer at Ease)はT.S.エリオットからだ。学校で、彼はかつてイボ語で少年に石鹸を渡すよう頼んで罰せられたことがある。その侮蔑にもかかわらず、彼は英語で書くことを好んだ。「私は、英語が私のアフリカの経験に重みをもたらすことができると感じている」彼は1965年に宣言した。けれども、それは「依然としてその先祖伝来の故郷と完全に通じ合うが、その新しいアフリカの環境に合うよう変わった」異なった英語でなければならないだろう。
 

狩人とライオン

彼の影響の一つの度合いは、現在のアフリカ文学がいま、それがかつては周縁的だと考えられたアメリカ中で教えられているということだ。別のものは、現代アフリカ作家は今、その本を世界中で売っていることがある。アチェベ氏は、アフリカ文学の父として広く認められているが、彼の重い遠近両用メガネの奥で笑う彼はそれを拒否した。代わりに、彼はお気に入りのことわざを繰り返した。「ライオンが自分の歴史家を持つまで、狩の歴史はいつも狩人を賛美する。」彼は小さいけれども、彼はアフリカのライオンの最初期で最も重要な歴史家になった。
 

発行日: 
2013-03-30
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