英語教育への一案

最近、企業をはじめ、ますます英語熱は高まっているように見える。しかしながら、現状を見ていると、どう見ても英語を使っているというよりも、英語に使われている感は否めない。英会話とか英作文とか、どれもツールにすぎないのに、それ自体が目的化しているような感じなのだ。この違和感はどこから来るのだろうか。思うに、自分の考えを表現するためのツールというよりも、ただひたすらコミュニケーションが目的になっているというインスタント感が引っ掛かるのではないだろうか。なんというか、理解するというプロセスがすっかり抜け落ち、誰かに言われたことをほかの誰かに流すためのツールとして英語ができないとだめだ、とったような風潮が、この使われている感の原因なような気がする。私に言わせれば、言葉など話せなくても、内容があれば必然的に伝わるものなのに、現状は悲しいことに内容を鍛えるのではなく、ツールを鍛えることに集中しているように感じられるのだ。

私は、一番最初の段階からの英語教育に問題があると感じている。率直に言ってしまえば、文法も、会話も、そしてリスニングすらも、英語教育には必要でないという気がしている。必要なのは、まず自分が何を表現したいか、何を理解したいかということを明確にさせ、それからそれを日本語ではなく英語で行うためにはどうすればいいのか、ということの手助けをすることだと思うのだ。

つまり、表現に関して言えば、まずは日記を英語で書かせる。なれたら読書感想文などより意見をはっきりさせなければならないものを書かせる。そしてエッセイのようなものもかけるようにする、というプロセスが重要だと思うのだ。文法のようなものは、表現したいことがあれば必要に応じて自分で覚えるものだし、その方がずっと理解が早い。そして自分の頭で考えて書いたものならば、話すときにも自然に出てくる。そして自分の関心のある話題になれば、必然的にリスニングも鍛えられる。要するに好きなことをやっていく延長として英語を覚えさせたほうがずっと効率がいいと思うのだ。

理解したいことに関して言えば、現状のように、日本語訳のありふれた教材を延々と訳していくのではなく、古くてもいいから、著作権の切れたようなもので、まだ日本語訳のないようなものをリストアップして、学校ごとにいくつかずつ割り振り、その中で自分の選んだものを、例えば高校2年の段階で1冊まるまる訳させるということをやった方がいいのではないか、という気がするのだ。個人でやらせてもいいが、さすがにそれは負担だろうから、グループ、いや一クラスで1冊でもいい。そしてその訳本については、訳者の名前を全部入れたうえでアーカイヴとしてインターネット上で公表するのだ。それにより、今まで誰も訳したことのないものを自分たちが訳したのだ、という道を切り開いた感を感じさせ、その本に関しては日本一なのだ、という誇りを持たせる。それは人生の中において一つの大きな自信になるだろう。そして、今まで訳されていなかった本が、もしかしたら誰も読まないかもしれないが、それでも日本語になって蓄積されていくというのは、日本社会にとっても、少なくともくだらない既存の英文和訳をやっているよりは、何十倍も価値のあることだ。さらに、自分たちで考えて英語を日本語に訳していくというプロセスは、英語力をあげると同時に日本語力もあげる。こんな一石何鳥にもなることをやらない方がもったいないという気がするのだが、いかがだろうか?

私は、国際人を作るためには、きちんと自分の考えを日本語で相手に伝わるように表現できる人を育てるのが一番の早道だと考えている。それさえできれば、そのエッセンスは別に機械翻訳でも伝わるのだから。英語を使うことを目的に、その学習に時間を割くことほど時間の無駄はないだろう。そんなものはもののついでにやればよいのだ。

 

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