新芽、緑、そして葉 - 環境成長

豊かな国は環境についてたくさん心配することなく繁栄した。低中所得国はそのようなぜいたくを持っていない

ナイヴァシャ湖の南岸で、ケニアの青々とした大地溝帯は、イングランドの夏の予期しない香りを保っている。中では、巨大なプラスティックの温室がずっと遠くまでバラを育てている。ヨーロッパに輸出して、彼らはそこで売られている商業用バラの1/5を占め、ケニアの外貨の1/10を供給する。しかし、その事業は自身の成功の犠牲者だ。

花よりも鋭く匂いに誘われて、カネを稼ぐために25万人のケニア人がバラの生産者に続いて谷に入った。彼ら自身を養うために、彼らは湖に流れ込む流れを濾して抑える木々を切り倒して、周りの丘を耕した。それは今では汚泥と排水で汚染されている。

それは、それが原因となった環境的な損害によって詰まらされた古典的な開発の物語のように見えるかもしれない。しかし、これはもつれを持っている。バラの生産者は、木を残しておく近代的な農法を奨励して小さな所有者にカネを貸しはじめている。それは始まったばかりだが、その結果は見通しがある。それらは生産者、小農業者、そして湖に利益がある。

環境サーヴィスに支払うことは、新しい考えではない。メキシコやコスタ・リカで開拓され、そのような計画は多くのラテン・アメリカの巨大な都市への水供給をきれいにし続けている。中国の北西部の黄土高原は、フランスの大きさなのだが、農民に管理されない放牧をやめさせ、段丘と水路の世話をさせることに支払うことによって、ほとんど砂漠だったところから戻った。地元の所得は10年で倍になった。

これらの枠組みはより広い重要性を持っている。それらは、経済発展と環境との間のしばしば破壊的な関係を改善する試みである「環境成長」の例だ。6月20-22日のブラジルでの持続可能な発展についての「リオ+20」会議の準備段階で、それは、実業界の人々と政策立案者にとって新たな題目になっている。しかしそれは機能するのか?

「環境成長」の中心的な主張は、ヨーロッパ、アメリカ、そしてほかの豊かな国々よってとられた産業化のコースは、世界の残りの場所では機能しないだろう、というものだ。彼らの経路は、「先に成長し、後からきれいにする」だった。環境への懸念は、産業家の初期段階ではほとんど何の役割も果たさず、少なくとも1960年代までは弱いままだった。オハイオのクヤホガ川はとても汚れていたので、1969年になるまで発火していた。それは、アメリカの環境保護期間の創出を駆り立てた。

環境への懸念が主に豊かな人々のためであるという考えは、依然として強力でしつこい。それは外交の一部をなしている。気候変動に関する京都議定書は、中国やほかの発展途上の汚染者たちを温室効果ガス削減の義務から除外している。それは国内政治に影響する。コスタ・リカの元環境大臣、カルロス・マニュエル・ロドリゲスは、ラテン・アメリカの政治家は保健、読み書き、そして環境について台無しにすることができるが、もし彼らが職と成長を提供できれば、彼らは再選されるだろう。そしてそれは、どのように経済が機能するかについてのモデルの中で長い間環境を無視してきた、経済学に影響している。1991年に世界銀行の首席エコノミスト、ラリー・サマーズは、貧しい国がそこで行う汚染はそれほど費用がかからないだろうので、彼らは豊かな国から汚染物質を輸入すべきだ、というメモすら送っている。(彼は、彼の皮肉は誤解だと語った。)

しかし、貧しい国が環境にやさしくする余裕がないという議論を傷つけ、きれいにするのを待つ費用は上がっている。中国社会科学学会は、環境劣化による中国経済への年間の総損害は、GDPの9%に等しいと計算する。世界銀行は、悪い衛生と水の汚染がインドの国民所得の6%の費用をかけているという。気温上昇と生物多様性の減少の世界的影響を無視することさえも、それ故に、環境被害の地元と国家的費用が大変だ。(現在では卿である)英国経済学者のニコラス・ステーンは、2006年の大きな報告の中で、気候変動は成長のブレーキだろうと語った。その予測はすでに本当になっているかもしれない。

そのブレーキは、国々が豊かになるに従い悪くなっているようだ。今後40年間のほとんどの世界の人口増は発展途上国でだろう。2-30億人が中産階級に入る。これは、過去150年でその状態を達成した人の2-3倍になる。多くが大きな車、大きなエアコンの効いた家、そして穀物よりも多くの水と土地を必要とする肉を食べるだろう。これは、成長を抑制するやり方で環境により多くの圧力をかけるだろう。それは、多くの人々を貧しく汚染された状態にするだろう。それはすべての可能な世界の中で最悪のものだ。そのような結果を避けることは、明日の問題ではなく、今日の問題だ。

なぜかを見るためには、汚染についての異なった種類の都市設計からの示唆を見よう(町がすべての汚染の80%を占めているので、彼らが整理されているやり方が大きく問題になる)。アトランタとバルセロナは、だいたい同じ人口を持っている。しかし1990年に、アトランタは26倍大きな地域に広がり、それ以来拡大している。結果として、それははるかに大きな汚染を生み出している。広がった町とコンパクトな町の違いは、町の発展の初期に固定された。ひとたび広がり始めると、元に戻すのは難しい。都市についての選択は前世紀に設計された(もしくは、道路や発電所の場合には何十年も前)。気候変動の主要な原因を名指しするよう尋ねると、サン・パウロ、メキシコシティ、そしてダルエスサラームの市長たちは、都市設計だと答えた。諸国は、その都市設計やエネルギーミックスについて心配するのに、豊かになるまで待っている余裕がもはやない。それまでに、それは手遅れになるだろう。

だから、「先に成長し、それから環境にやさしくする」という助言は産業化する人口が5億人で成長が比較的遅かった時代には意味があったかもしれないが、それは何十億人もが後に続き経済が年に8%も成長するときには機能しないだろう。発展は最初から環境にやさしい必要がある。それを認めて、「環境成長」計画は低中所得国に浸透している。エチオピアは2025年までにGDPを倍にし、一方で温室効果ガスの排出を2015年のレヴェルに保つことを望んでいる。ステーン卿は、(2011-15年の間に年7%成長することを望む)中国の5か年計画が、どの国と比べても温室効果ガスの削減について最大の貢献だと表現する。環境政治は、もはや豊かな国の分野ではない。

しかし、単に何かが流行だということは、それが有益だということを意味しない。環境成長の本当の問題は、それが、貧しい国々が環境性と繁栄の両方を持つという約束を満たすことができるか、ということだ。

中心となる考えは、環境が別の種の資本だというものだ。それは産出への計測可能な貢献を作り、説明され投資され効率性を開発し(理想的には)価値を増やすべきだ。

これは議論を呼ぶ。多くの良いことをする組織は、環境を効率的ながら開発するという考えを恐れる(まったく、環境を効率的に開発するのはさらに悪いと考えるかもしれないものもいるかもしれないのだ)。彼らは、環境成長の提案が、「環境にいいと見せかけた資本主義」として非難し、世界の天然資源を守るたった一つの道は消費を減らすことだと主張する。

大きな国の中には、反対の理由で環境成長に抵抗するものもいる。彼らは、それが見えないように西側の環境標準を彼らに課し、職の創出と輸出を硬直させることを意味すると考えている。どちらの側も一つのことに合意する。環境性と成長は対立するということだ。より微妙な批判は、環境成長が、いずれにせよ因数分解されるべき環境的費用についてのたくさんの騒ぎで、単によい経済的な雑務だということだ。これらの批判のために、環境成長は明確な政策というよりも、スローガン的なものだ。

それに反応して、環境成長の提唱者は、本質的に、証拠は我々の側にある、と論ずる。新たな世界銀行報告「包括的環境成長」の主著者マリアンヌ・フェイは、今の経済学者と環境主義者を、1990年代の経済学者と反貧困運動家になぞらえる。それから、運動家は高い最低賃金のような動機づけを破壊する政策を論ずることをやめ、代わりに条件付き現金移転計画のような社会的改革を促進し始めた。これらは同時に成長を奨励し貧困を削減した。似たように、環境成長の提唱者は今、「脱成長」についての動機づけを破壊する要求を廃止し始め、よりよく機能するだろう政策を求めている。

ロンドンのシンクタンク海外開発研究所のクレア・メラムドは、これが環境主義者が反貧困運動家から学ぶことを意味するだろうと期待する。表面上は、これらの二つは違って見える。環境主義者は、特に気候変動の研究において、科学を重んじている。彼らは(50年にわたって世界の温度の上昇を制限することを狙うという)長期目標を持っている。彼らはしばしば、経済学に対して自己犠牲的なやり方を採用する。対照的に、反貧困運動家は、貧困は道徳の問題だと語る。10億人の人々が食料が余っている世界で飢えるのが当然だというのは間違っている、というものだ。彼らはより短い時間軸を持っている(国連のミレニアム開発目標は15年だ)。そして彼らの経済的政策は、貧しい人々と会社のために経済的機会を拡大することを狙っている。

何らかの方法で、環境成長は環境主義に開発的な特徴を適用する。ケニアのナイヴァシャ湖や中国の黄土高原の農地造成作業のように、それはかなり短期的な計画を推奨する。それは、ふつう単に経済的な問題だとみなされる、市場と協調の失敗に大きな注意を払う。そしてそれは民間部門を奨励する。

実際問題として、これは、広い環境的な、そして狭い商業的な意味で高い収益をもたらす、投資に飢えた計画を探すことと意味する。これらは、成長のトレードオフ的な見方が示唆するだろう物よりも巨大だ。ビジネス・コンサルタントのマッキンゼーは、炭素排出を削減する計画のための費用曲線を描いた。これらは底の部分では安いのと同様に環境にとって良い(投資に支払う人々が利益を収穫するのは簡単ではないが)。最大の利益は、消費者の選択によって影響されたことの中にある。ハイブリッド車、エネルギー効率の良い電球や冷蔵庫といったものだ。世界銀行の民間部門である国際金融公社は、建設費用の1%の増加がエネルギーと水の請求書を20%減らしうると計算する。旱魃耐性農産物や過剰に漁をされた水域での「禁漁地域」を含んだほかの例がある。(遺伝子組み換えを含む)旱魃耐性農産物は、環境的に良い、植物が土壌から引き上げる水の量を減らし、より丈夫で、悪い年の農家の収入を上げる。「禁漁地域」は、魚の数を回復させ、周りの地域の漁師の所得を押し上げることを見つけている。

環境にやさしい行動に費用がかかるスペクトルの反対側には、炭素捕獲貯蔵と太陽光発電がある。これは、たくさんの政策が資源を環境成長に向けて資源を向けなおすが、それは魔術的にすべてをウィンウィンに変えることはできないと思い出させるものだ。トレードオフは残る。しかし、少なくとも環境成長会計はそれらをより開放的に明示的にして当然だ。

もしそんなにたくさんの利益が上がりかつ環境にやさしい活動が存在するのならば、なぜ会社は殺到しないのか?その答えの一部は、彼らはそうし始めている、というものだ。国連環境計画の研究によると、再生可能エネルギーへの投資は、2011年に2007年の倍となる2,570億ドルに上がっているという。その1/3以上が低中所得国へ行っている。

投資の中には、疑いもなく特別な補助金によって引き上げられているものもある。将来の高い石油価格への会社の恐れを反映したものもあり、保険としての代替エネルギーに彼らを奨励している。しかし、真の環境民間部門がゆっくりとあらわれてきているように見える。2005年にニューヨークに上場した中国企業のサンテックは、今では世界最大の太陽光パネルの供給者だ。2004年に設立されたインドのヴェンチャーキャピタル会社コスロ・ヴェンチャーズは、発電所から電池や低排出エンジンに至るまで、きれいなエネルギー投資のポートフォリオを持っている。2000-10年の間に、環境成長熱狂者は、ハイブリッド電気自動車の種類が2から30に増え、国際的格付け機関のLEEDによって「環境建築」の資格を与えられたものの数が3から8,000に増えたと指摘するのを好む。

答えの別の部分は、市場の失敗、協調の問題、そして政府の補助金が、事業が環境成長を選ぶのを妨げている。所有権の欠如は、公海や熱帯雨林といった資源の濫用を(明らかに)合理的にし、過剰採取と崩壊(共有財産の悲劇と呼ばれるもの)につながる。古典的な調整問題は、貸し出された財産にみられる。家主が彼の家を隔離させることは意味をなして当然だ。それは電気料金を些細な支出にするからだ。しかしもし彼の借家人が電話代を支払うのならば、彼らは利得を得るので、彼は迷惑ではない。

国家的規模では、一つの分野で比較優位を開発することは、他の所での公的支出に頼りうる。例えば、モロッコは太陽光発電を作り出すことができるべきだが、それは国の貧しい部分に電線を建設することを要求しそうだ。そのような組織的、そして市場の失敗は、環境成長の政策立案者の注意をひく。彼らはしばしばなぜ成長が環境を害するかを説明するからだ。
 

補助金の障害

しかし、これらの問題は、補助金の影響に比較して、無意味なことに薄くしている。世界銀行は、年間約1.2兆ドルもののお金を環境的にそして経済的に有害な活動に政府が補助していると計算する。安い化石燃料に5,000億ドル、安いもしくは無料の水に3,000億ドル。漁業・農業補助金に4,000億ドルだ(これらのすべてが環境的に有害というわけではないが)。

一つの例をとってみる。中国での補助金は、肥料をとても安くしているので、農民はそれらを畑にたっぷり使う。農産物はそれらをすべて吸収することができない。余剰部分は川や湖に流れ込み、恐ろしい汚染の原因になる(中国の湖の中には、藻類で明るい緑になっているものがある)。肥料を少ししか使わなければ、明らかに農民はお金を節約できるだろう。農産物は苦しまないだろう。水系はより健全になるだろう。公共の財布もそうだろう。ウィンウィンウィンだ。しかし、肥料ロビーの影響力と政府内での彼らの農業的な同盟者がそれに抵抗する。

国の補助金は、成長と環境との間の抜け出せない闘争の結果というよりもむしろ、1兆ドルの政治経済問題なのだ。それはそれらの解決を簡単にはしない。しかし、環境成長の提唱者は、もし経済成長が平らで打撃を和らげるものが何もないよりも、経済が成長し反対派を買収する金を持っていれば、諸国はより補助金を削減しそうだということにかけている。

原理的には、環境成長政策は、生産性を押し上げ、ほかのやり方よりも長期的成長を許して当然だ。天然資源をより有効に使うことは、無駄にされた資本をより生産的な投資にそらすべきだ。きれいなエネルギーのようなものへの支出は、全体として経済に良い革新を押し上げて当然だ。そして、理論的には、自然資本の価値の増加は、ほかの種類の資本がそうであるように、成長にとって良い。

だが、環境成長に対する疑念は残っている。最初に、効率性を改善することに根差したどんな政策も、炭素、水、(そしてほとんどの貧しい国々では)土地への正しい価格なしで本当にどれほど遠くまで行けるのかははっきりとしないことだ。炭素化水の価格の脅しそれ自身でも、違いをもたらすことは本当だ。会社は、どんな準備もなしで、例えば炭素1トン当たり40ドルといったものを、突然支払う余裕はないからだ。それらは、それ故に、影の価格を使い始めている。依然として、誰も基本的な投入に正しく値付けする方法をまだ見つけていない。そして、それらなしでは、ほとんどの環境成長政策は、いつも次善の策だ。

次に、環境成長政策は、地球規模の環境問題よりも、地域的なそれをよりよく取り扱うということだ。例えば、分水嶺管理といったものの利益は、今では国単位でとらえることができるが、より低い温室効果ガス排出の未来の利益は時と場合によって分散する。だから、環境成長がどれほど気候変動を取り扱うことができるかについての心配は、部分的に正当化される。

さらに、環境成長は、会社が環境費用の正しい会計をするのに十分なほど正確に環境を価値づけすることが可能だという考えに頼っている。それはいい考えだ。しかし、「自然資源会計」は行くべき方向がある。統計学者と会計士は、一般的な監査原則について合意したが、これらは会社のためにはまだ十分には詳細に述べられていない。

それが言っていることのすべては、環境成長は、(多くの貧しい国々では特に何もない)現在存在するものと、環境主義者が過去にしばしば求めてきたものの両方で改善点を残しているということだ。低中所得国は、彼らの環境が劣化しており、彼らの町が広がっており、彼らの水供給が不足していることを完全に良く知っている。彼らはまた、成長を減らすことによってそのような問題を解こうとすることは、政治的な自殺を犯し、現在の貧しい人々に望みのない未来を宣告することだろうと知っている。環境成長は、繁栄と環境保全との間の最も鋭い争いに直面している国々に不可能なことを企てさせる最善の望みを提供する。
 

発行日: 
2012-06-16
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