アザワド解放民族運動

アザワド解放民族運動(Mouvement National pour la liberation de l'Azawad) かつてアザワド民族運動(MNA:フランス語イニシャル)だったアザワド解放民族運動(MNLA:フランス語イニシャル)は、マリのアザワド地方に拠点を置く政治的軍事的組織だ。その運動は、かつてリビア軍で戦っていたり、リビア国民評議会の側で戦っていたりし、2011年のリビア内戦後に戻ってきたトゥアレグによって構成されていると言われる。その運動は、2011年の10月に設立された。その運動はまた、他のサハラの部族の人々も含んでいる。マリ政府は、アラブの春の間の他の国の反応と同様に、イスラム・マグリブのアル=カーイダとのつながりを持っているとしてその運動を非難している。しかし、MNLAはその主張を否定している。

歴史

1916年以来、少なくとも5回のトゥアレグの反乱があった。前回の反乱の失敗の後に、トゥアレグの戦士たちはリビアに去り、リビア軍に参加した。2011年の終わりに、リビアのムアンマル・カダフィ政権の敗北を受けて、リビア軍に参加していたいくらかのトゥアレグ戦士はマリ北部のアザワド地区に戻った。MNLAは、北部マリトゥアレグ運動といった集団が融合してできたと言われている。伝えられる、リビアの反乱軍に向けた武器の流入は、トゥアレグが住む大部分が統治されていない砂漠地帯で大きな備蓄物資となり、重火器の多くが行方不明で、高価で取引されうるとの懸念を生んでいる。分析者の中にはAQIMやカダフィとリビア内戦とのつながりを否定する者もいるが、この反乱の勢力は依然としてリビアからの武器やかつてのアザワドでの反乱の残り、そしてマリ軍から離脱したアラブやトゥアレグの人員によって持ち出された装備の影響すら受けていると理解されている。 MNLAに採用された旗は、提案されたアザワド国家のものだ。 彼らはまた、マリ政府によって、AQIMと協力しているとして非難されているが、MNLAはこの主張を否定している。 MNLAは2011年10月に設立された。時にそれは他のそのような集団との関わりの中で、その1年以上前に設立されたと考えられている。MNLAは、自分たち自身を、(ソンガイ、アラブ、プル、そしてトゥアレグといった)アザワドのすべての人々の解放のための運動だと紹介している。

独立の戦い

MNLAは2012年の1月に、マリの3地域を中央政府の支配から解放し、アザワドの独立を求めるために、その武装作戦を始めた。 MNLAの戦いは、マリのアザワドの権利のためだ。 1月に、その戦士たちは、アンデラムボウカネ、メナカ、テッサリト、ニアフンケ、そしてアゲル・ホックを攻撃した。彼らは、2月1日にメナカ、といった具合に、北部マリの一部を支配下に置いたと報告されている。その間に、その運動はレールの町で5番目の戦線を開いているといわれる。1月の終わりに、彼らは、NATO軍がリビアに落としたものから獲得した地対空ミサイルで、マリ空軍のミグ21を撃ち落としたと主張した。マリ空軍はまた、その集団を目標とするために武装ヘリコプターを使っている。2月4日に、その運動の戦士たちはキダルの町を支配し、そこの二つの軍事基地を占領するために、そこの政府軍を攻撃した。同時に、北での衝突に続いて、トゥアレグの市民は、報復を恐れてバマコの町を去っているといわれる。国際赤十字はまた、3,500人の人々が国境を越えてモーリタニアへ、そして1万人がニジェールへと、衝突の間に逃れたと語った。2月8日に、ティンザオウテンの町が、国連の攻撃中断要請のさなかに起こった一人の兵士の死と他の二人の兵士の負傷を受けたマリ軍が「戦術的撤退」の後で、中央政府の支配から取り上げられた。MNLAがそこの二つの軍事基地と武器貯蔵庫をおそう間に、一人の反乱軍もまた殺され、別の一人が負傷した。国連が2万人以上の人々がブルキナファソ、アルジェリア、そしてモーリタニアに逃れているという一方で、国際赤十字は3万人の国内避難民がいると加えた。国連はまた、戦闘の結果としての食糧不足を警告した。合計して、10万人以上の難民が退去させられ、彼らの少なくとも1/4がニジェールにいるという。西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)は、暴力の調査を行うためのチームを送ることを計画している。

指導部

創設指導者の一人は、マウサ・アグ・アカール・トウマンだといわれている。別の影響力のある指導者は、1990年から2006年まで反乱軍にいたイブラヒム・アグ・バハンガ(とその義父で、以前の反乱の報道官でもあった、ハマ・アグ・シダーメド)だ。彼が敗北し、リビアへ逃げることを強いられた後で、砂漠戦を戦うためのリビア軍の新しい部隊で役職を得た1990年の反乱の他の指導者たちに会ったといわれる。イブラヒムは、メディアの光の外でマリ国家と戦う熟練した軍隊を持つことを模索した。しかしながら、彼は2011年8月26日に殺された。彼がリビアで会った将校の一人に、その運動の軍事部門の長だといわれるモハメド・アグ・ナジム大佐がいた。彼はマリ人の家系だが、蜂起の直後にリビア軍を辞め、マリでのトゥアレグの反乱に参加した。MNLA運動には、約40人の将校がいるといわれている。その運動の総局長はビラル・アグ・シェリフだ。ハマ・アグ・シダーメドは、その運動の報道官だが、ヨーロッパのどこかにいる。

元記事更新日: 
2012-03-15
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