貧乏の肖像

人々を貧困から引き上げることについての合意は、驚くほど最近のことだ

7月17日に、インドは最新の貧困の数字を発表した。それらは、勇気づけられる物語を語る。貧困線以下のインド人は、2004-05年の37%を超えるところから下がって、2011-12年には22%に少し満たないところになったのだ。選挙がそれほど遠くないので、これらの数字は異論なくは通らないだろう。否定的な態度を取る人は、すでにその数字が政府をよく見せるために早く発表されていることに不平を言っている。しかし、政治的反対派がそれについて頑張って戦う時でさえも、彼らが論議しないことについて注記することは価値がある。誰も貧困の減少が悪いことだとは言っていない。そして誰も、政策立案者が大量の貧しい人々を貧困から出すことを助けようとするべきだということについて論じていない。これは、世界的な合意を写している。国連であれ世界銀行であれ、雑多な役人であれ意識の高い有名人であれ、誰もが貧困の軽減は望ましくかつ可能だと考えている。その議論は詳細についてだ。

それは全く驚くべきことではないように聞こえるかもしれない。しかし、新たな論文の中で、ジョージタウン大学の経済学教授で世界銀行の元調査部長のマーティン・ラヴァリオンは、過去3世紀にわたっての貧困についての考え方の進歩をグラフで表す。彼は、この合意が注目すべきほど最近の製作年のものだと説明する。貧困が問題だ、公共政策は貧しい人々の数を減らそうとすべきだ、そして経済を痛めることなくそうするための良い方法があるといった、受け入れられた知恵のすべての要素が疑われていただろう時期は、それほど昔ではないのだ。

16-18世紀にヨーロッパ人に支配的だった重商主義的思考によれば、貧困は社会的に有益だった。確かにそれは貧しいものにとっては悲惨だった。しかし、それはまた、たくさんの安い労働力の利用可能性を確保することによって、経済的エンジンをブンブンまわし続けた。18世紀の経済学者で哲学者のバーナード・デ・マンデヴィルは、それが「奴隷が許されていない自由の国では、もっとも確かな富は大勢の勤勉な貧者の中にあると明らかにする」と考えた。その姿勢は、標準だった。

もし貧しい人々が、経済発展を確保するための道具としてみなされていたのならば、それは、なぜ彼らを貧困から去らせるのを助ける政策がほとんど求められなかったかを説明する。そこにあった行動は、本質的に緩和策になる傾向にあった。18世紀には、救貧法の変化は、収穫の失敗や死別のような不運な衝撃が、すでに貧しい人々の生活をさらに難しくするのを止めるために設計された。そのような政策は、貧しい人々を引き上げるためではなく、最悪の剥奪から守るために設計されたのだ。

18世紀後半には、貧者に対する態度は、道徳的な調子を帯びてきた。聖職者のトマス・マルサスは、貧者の窮状を彼ら自身の欠陥のせいにした。技術的変化は賃金を生存水準の上に動かすかもしれないが、一時的にしか過ぎない。貧者の多産がすぐに賃金を元に戻すからだ。彼の考え方は、救貧院を彼らのたった一つの選択肢にしようとした1834年の新救貧法の導入に影響を与えた。貧者に金を与える「院外救貧」は止められる必要があった。

アダム・スミスはより人間的な見方をした。彼は、貧困が社会的感情的犠牲をとりうると見、分配的課税への支持を増そうとした。「豊かなものは、収入に見合ったものだけではなく、その割合以上のものを、公的支出に貢献すべきだ。しかし、経済学の父でさえも、人々を恒久的に貧困から出すというしっかりとした戦略を提供しなかった。

20世紀までに、チャールズ・ブースとシーボーム・ロウントゥリーの研究が、貧困の問題を公的意識の中に固く持ち込んだ。これは、ひいては、貧乏を減らすための経済的理論的根拠についての新しい考え方を奨励した。古典学派は、成長の真の制約は、総貯蓄だと信じた。金持ちが貧者よりもたくさん貯蓄することを考えれば、これはより少ない貧困が低い成長を意味するだろうことを示した。ジョン・メイナード・ケインズは、問題なのは総消費で、その場合貧困削減は実際に成長を助けうる、と論じて、この見方に異議を唱えた。しかし、いかに高い水準の貧困が投資と革新を抑えるかを示して、しっかりとした理論的枠組みがあらわれたのは、1990年代になってからだった。例えば、いくつかのモデルは、いかに不平等な信用への接続が、貧者にとって自身の教育や事業に最適なものよりも少ししか投資できないことを意味し、経済全体のより低い成長につながるかを示した。学者たちは、高い貧困の初期水準が発展途上国での後に続く成長を減らしたという経験的な証拠で、その理論を強化した。
 

貧しい関係

貧困の新理論はまた、なぜ貧者が貧しいままとどまるかの受け入れられた概念をひっくり返しもした。その欠点は、ずっと彼らのドアにおかれていた。貧者は様々に怠惰で、アルコール中毒症の傾向があり、規律ある仕事の能力がない、といった具合だ。そのような言葉のあやはいまでも依然として時折聞くが、1930年代の大恐慌の恐怖は、多くの人々が貧困が主として人々自身の行動の結果だという考えを再評価することにつながった。経済モデルの進歩は、一方、政策立案者に、いかに低い水準の教育、医療、そして栄養が人々を貧乏に固着させ続け売るかを見ることができるようにした。教育や医療に補助金を出す政策は、単に彼ら自身のためだけではなく、それらが人々が貧困を突破するのを助けるので、望ましかった。

子供たちを学校に送るかワクチン接種をさせる限りにおいて貧しい人々に金を与えるブラジルの「ボスラ・ファミリア」のような、「条件付き現金給付」の枠組みの増加は、これらの考えの論理的発展だ。デ・マンデヴィルの時代には、貧者をより良い生活を送るよう教育するという概念は、ばかげたことに見えた。「働くことに対して学校に行くことは無為で、子供たちがより長くこのような簡単な種類の生活を続ければ続けるほど、まっとうな労働をするよう成長した時に彼らはより合わなくなる。」そのような思想の貧困は古風に聞こえるかもしれないが、それはあなたが考えるかもしれないよりも長く持続したのだ。

Free Exchange欄より
 

発行日: 
2013-07-27
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