日本

禅と車づくりの芸術

7月
04

日本企業は車作り職人として知られているが、演出能力も必要だ

日本では、会社は続くものとして作られた。世界で最も古い企業は、578年までさかのぼる日本の建設業の金剛組だ。14世紀以上後に、それはその中核的事業にこだわっている。大阪の仏教寺院の維持だ。多くの日本企業はまた、従業員がその心に刻み込んでいる設立原則を持っている。普遍的なテーマとして、長生き、一貫性、そして統合性が含まれる。自分のための利益を追うことは、日本では依然として、公衆の面前で鼻をかむことのように、汚いことだと考えられている。

この原始的な世界では、モノづくりは売ることよりも美徳だと考えられている。これは、日本の特徴というだけではない。シリコン・ヴァレーでも、ハッカーたちは単なる行商人と一緒にされないことを好む。しかし、日本では工業はほとんど宗教的な情熱で崇拝されている。実は、愛情を持って完全に治せるものという考えは、仏教的な禅にどこか負っている。マーケティングにははるかに少ない注意しか払われていない。世界的なブランドの世界では、これは間違いだ。日本の事業は物語の芸術もマスターする必要がある。

Posted By gno-eagrai 続きを読む

日本民主政治最後の日

6月
26

本日2012年6月26日、日本の民主政治は終わりの日を迎えた。

一度も国民からの信任を得ていない僭首は、国民からかつて完全に否認された法案に関わり、「総選挙をするという選択肢はない」と言ってのけた。それならば私も言わせていただこう。正当性のない人物による、正当な手続きを経ない法を「受け入れるという選択肢はない。」

いまさら繰り返すまでもなく、2009年の選挙で、消費税は4年間上げないと言って民主党は勝利した。そのときはそれが主要論点ではなかったとか、4年間「あげる」ことはしない、といった議論は、その時点ではあり得たかもしれない。しかしながら、2011年の参議院選挙では、民主党は明確に消費税増税を掲げて敗北した。この時点でこの議論についての民意は明らかに示された。にもかかわらず、何ら国民からの信任を受けていない次の総理は、何も恥じることなく「国民のため」を連発した挙句、それを確認するという手続きを一切踏まないまま、本日、衆議院で採決に踏み切った。

国民は、最善を尽くしたとして、この一連の手続きにおいて、どの時点で彼を止めることができたのだろうか?一個人の勝手な思いが、ノーチェックで国政に反映されるというは、民主主義といえるのだろうか?こんなことがまかり通るのならば、選挙に意味はあるのだろうか?

もし仮に法案が文句のつけようもなく、対案も出しようもないほどの素晴らしいものだったら、私とてここまで反発はしない。しかしながら、こちらでいくつも論点を出したように、議論すべき課題は山ほどあった。にもかかわらず、実質増税幅と時期以外には何も決めることなく、単に「増税を決めただけ」というのは驚くべきことだ。まさに国民を愚弄することだけが目的の、愉快犯としか思えない。残念ながら私はこれほどの侮蔑、愚弄に耐えられるほど心は広くない。

これまでも一度もこの僭首に正当性を認めたことはなかったが、今後一切その決定事項に私が縛られることはないとここに宣言しておきたい。彼の関わった法から一切の権利義務関係が生じることはないだろう。その手続きに正当性がないのだから。ままごと政治は自分の支持者の間だけの僭首国内でやっていただきたい。私はそんな国を承認することもないだろうが、承認したい人たちを止めることもしない。

民主主義法治国家の国民の誇りにかけて、私はこの暴挙を許すことはない。

まったく扉を閉ざしてしまうのも、発展がないので、もし最後のチャンスを望むのならば、国民投票にかけていただきたい。有効投票2/3以上で過半数の賛成があれば、私は受け入れる。これは非常に穏やかな条件であると、私は認識している、この程度の賛成すらも集められないようなら、とてもではないが国民の合意を得ているとは言えないだろう。申し添えておけば、1票の格差も解消できないような衆議院の解散で今更お茶を濁そうなどと考えても、もうそんな段階はとうに過ぎたということははっきりさせておきたい。
 

政治に限らず、演劇において、観客の存在を忘れて、身内の評価しか耳に入らないような大根役者は、残念ながら決して大成することはないだろう。最終的にカネを払うのは観客なのだから。さらに言うのならば、もし自分が観客に向けて演じていることすらも忘れて、親や先生に褒められて自己満足に浸っているのならば、それは演劇ではなく、ただの学芸会である。一つだけ確かなのは、何の魅力もない猿芝居にカネを払うお人よしなどはどこにもいないということだ。

 

法案賛成者一覧はこちらから

 

 

Posted By gno-eagrai 続きを読む

手を貸す - アジアでの日本の銀行

6月
02

日本の大手銀行はヨーロッパ勢の後退による沈滞を持ち上げる役に立っている

アジアの輸出主導型経済がユーロ危機によって苦しみうる、潜在的には重なる、道が2つある。一つはヨーロッパへの貿易の減速だ。2つ目は、ユーロ圏の銀行によって拡大された、貿易信用からシンジケート・ローンに至るまで、金融の枯渇だ。アジア開発銀行のイワン・アジズが5月16日に東京で開催されたエコノミスト誌のベルウェザー会議で論ずるには、どちらの点もアジアを2008年のリーマン・ブラザーズの崩壊の後のようには脆弱にはしないという。理由の一つは、日本のメガバンクが、ヨーロッパ勢が立ち去った後の沈滞を持ち上げるために、自分たちの領域をふさぐためだ。

Posted By gno-eagrai 続きを読む
Posted By gno-eagrai 続きを読む

資源に満ち、精力的だ - 日本の商社

5月
22

三菱、三井、そしてその同業者たちは天然資源ブームに勇敢に賭けている

日本の大きな商社の富は、19世紀のその始まりから、1940年代の戦争の悲劇中も、バブル期の浮き沈みまで、その国全体の揺らぎに影響されがちだ。しかし、最近、その商社たちは分離している。日本の多くが停滞する一方で、三菱や三井のような会社は、世界の天然資源ブームの原動力になっている。

これは驚くべきことだ。土地横領国家資本主義の時代には、全体として総合商社と呼ばれた彼らは、中国のエネルギー大手や国富ファンドに簡単に踏みにじられただろう。その彼らは最近、北アメリカのシェールガス、巨大(で議論になっている)なチリの銅山、そしてオーストラリアの液化天然ガス(LNG)を含んだ一連の大きな取引をやり遂げた。

彼らは、日本国際協力銀行からのたくさんの公的金融に支えられたが、ほとんどが独立に意思決定を行った。本誌が印刷されたころ、さらなる大きな取引が進行中だった。丸紅は、50億ドルでアメリカのガヴィロン社を買収することによって、(借金によるものだが)世界最大の穀物商社になりそうだと報道された。

Posted By gno-eagrai 続きを読む

英語教育への一案

5月
18

最近、企業をはじめ、ますます英語熱は高まっているように見える。しかしながら、現状を見ていると、どう見ても英語を使っているというよりも、英語に使われている感は否めない。英会話とか英作文とか、どれもツールにすぎないのに、それ自体が目的化しているような感じなのだ。この違和感はどこから来るのだろうか。思うに、自分の考えを表現するためのツールというよりも、ただひたすらコミュニケーションが目的になっているというインスタント感が引っ掛かるのではないだろうか。なんというか、理解するというプロセスがすっかり抜け落ち、誰かに言われたことをほかの誰かに流すためのツールとして英語ができないとだめだ、とったような風潮が、この使われている感の原因なような気がする。私に言わせれば、言葉など話せなくても、内容があれば必然的に伝わるものなのに、現状は悲しいことに内容を鍛えるのではなく、ツールを鍛えることに集中しているように感じられるのだ。

私は、一番最初の段階からの英語教育に問題があると感じている。率直に言ってしまえば、文法も、会話も、そしてリスニングすらも、英語教育には必要でないという気がしている。必要なのは、まず自分が何を表現したいか、何を理解したいかということを明確にさせ、それからそれを日本語ではなく英語で行うためにはどうすればいいのか、ということの手助けをすることだと思うのだ。

つまり、表現に関して言えば、まずは日記を英語で書かせる。なれたら読書感想文などより意見をはっきりさせなければならないものを書かせる。そしてエッセイのようなものもかけるようにする、というプロセスが重要だと思うのだ。文法のようなものは、表現したいことがあれば必要に応じて自分で覚えるものだし、その方がずっと理解が早い。そして自分の頭で考えて書いたものならば、話すときにも自然に出てくる。そして自分の関心のある話題になれば、必然的にリスニングも鍛えられる。要するに好きなことをやっていく延長として英語を覚えさせたほうがずっと効率がいいと思うのだ。

理解したいことに関して言えば、現状のように、日本語訳のありふれた教材を延々と訳していくのではなく、古くてもいいから、著作権の切れたようなもので、まだ日本語訳のないようなものをリストアップして、学校ごとにいくつかずつ割り振り、その中で自分の選んだものを、例えば高校2年の段階で1冊まるまる訳させるということをやった方がいいのではないか、という気がするのだ。個人でやらせてもいいが、さすがにそれは負担だろうから、グループ、いや一クラスで1冊でもいい。そしてその訳本については、訳者の名前を全部入れたうえでアーカイヴとしてインターネット上で公表するのだ。それにより、今まで誰も訳したことのないものを自分たちが訳したのだ、という道を切り開いた感を感じさせ、その本に関しては日本一なのだ、という誇りを持たせる。それは人生の中において一つの大きな自信になるだろう。そして、今まで訳されていなかった本が、もしかしたら誰も読まないかもしれないが、それでも日本語になって蓄積されていくというのは、日本社会にとっても、少なくともくだらない既存の英文和訳をやっているよりは、何十倍も価値のあることだ。さらに、自分たちで考えて英語を日本語に訳していくというプロセスは、英語力をあげると同時に日本語力もあげる。こんな一石何鳥にもなることをやらない方がもったいないという気がするのだが、いかがだろうか?

私は、国際人を作るためには、きちんと自分の考えを日本語で相手に伝わるように表現できる人を育てるのが一番の早道だと考えている。それさえできれば、そのエッセンスは別に機械翻訳でも伝わるのだから。英語を使うことを目的に、その学習に時間を割くことほど時間の無駄はないだろう。そんなものはもののついでにやればよいのだ。

 

Posted By gno-eagrai 続きを読む

ページ

日本 を購読