諸国民の真の富

富を評価するより良い方法を提案する新たな報告

「富とはその利点なしのものではない。」ジョン・ケネス・ガルブレイスはかつて書いた。「そして、しばしばされてきたことだが、反対の事例は、広く説得的だと証明されたことがない。」富の明白な利点にもかかわらず、諸国は自国のものを数え続けるのに貧弱な仕事をする。彼らはその豊富な天然資源、熟練労働力、そして世界的な社会資本を自慢するかもしれない。しかし、この自然、人的、そして物理的資産の在庫を合計する金融手法で、広く認識されているものはない。

経済学者は、普通GDPを代わりに決める。しかし、それは富ではなく所得を測るものだ。それは資産の在庫ではなく、ものとサーヴィスの流れを評価する。そのGDPである経済を測定することは、貸借対照表をのぞき見することなしに、四半期利益によってある会社を判断するようなものだ。幸せなことに、国連は、今月、ケンブリッジ大学のパーサ・ダスグプタ卿によって監督された報告の中で、20か国の貸借対照表を公表した。それらは、3つの種類の資産を含んだ。「製造された」または物理的資本(機械、建物、社会資本など)、人的資本(人口の教育と技術)、そして自然資本(土地、森林、化石燃料、そして鉱物を含む)だ。

この測り方によって、アメリカの富は、2008年にその年のGDPの10倍以上である、ほぼ118兆ドルだと計算された。(これらの金額は、2008年に優勢だった価格で計算された。)その一人あたりの富は、しかしながら、この測り方でトップに来た日本よりも低かった。GDPで見ると、日本経済は今では中国よりも小さい。しかし、国連によれば、2008年段階で、日本は中国よりもほぼ2.8倍豊かだ。

役人は、その国最大の資産は国民だ、としばしば言う。ナイジェリア、ロシア、そしてサウジアラビアを除いたこの報告に出てくるすべての国にとって、これは本当だと判明した。国連は、ある国民の人的資本を、平均就学年数、その労働者が自由にできる賃金、退職(もしくは死)までに彼らが働くことを期待できる年数に基づいて計算する。人的資本は、英国の富の88%、そしてアメリカの75%をあらわす。平均的な日本人は、ほかの誰よりも多くの人的資本を持っている。

日本は、1990-2008年の間にその自然資本を枯渇させなかったたった三つの国のうちの一つでもある。ロシア以外の国は、にもかかわらず、自然世襲財産の侵食を相殺するのに十分なほどほかの資産を累積させることによって、その富を増加させた。研究された20の国のうち14は、これらの富の増加はその人口成長速度を上回り、1990年よりも2008年で一人あたりの富を高くした。例えば、ドイツは、その人的資本を50%以上増やした。中国はその「製造された」資本を驚異的な540%拡大させた。

ボーキサイトから脳力に至るまですべてのものをドル価値に換算することによって、その国連の試作は、資本の三つの種類すべてを比較可能にそして計測可能にする。それはまた、それらが代替可能であることを暗示する。ある国は1,000億ドルの価値のある牧草地を失い、1,000億ドルの価値のある技術を手に入れ、前よりも悪くならないということが可能だ。その枠組みは、経済的な政策立案を「資産管理問題」に変える、とパーサ卿は語る。

例えば、サウジアラビアのような国は、その化石燃料の在庫を1990-2008年の間に370億ドル枯渇させ、一方、新卒者と大卒者の数を増やした(その人的資本はほぼ1兆ドル増えた)。豊かな国の中には、しかしながら、人的資本への投資が収益の減少をもたらしたように見えるところもある、とその報告は論ずる。おそらく、図書館よりも森林を補充して、政府は彼らへの投資を代わりに自然資本に方向を変えるべきだったのだ。

自然資本が代替可能だという考えは、(この報告への何人かの貢献者を含んだ)環境主義者の何人かを神経質にする。きれいな水や空気といった、その環境が提供するサーヴィスの多くは、置き換えることのできない必要なものだ、と彼らは指摘する。理論的には、しかしながら、これらの天然資源の疑いのない価値は、それらがより希少になるに従い、急上昇してその価格に反映してしかるべきだ。よい資産マネジャーは、それがずっと増えていく人的物理的資本の量が、更なる自然資本の損失によって取り消されると知って、それからそれらを注意深く大事にするだろう。

実際に、しかしながら、自然資産は、しばしばうまく価格付けするのが難しかったり、全くできなかったりする。その帰結として、その国連報告は、直接所有、売買することのできないきれいな空気のような資産を避けなければならない。それは、市場価格の存在するガス、ニッケル、木材といった資源に、それ自身制約するのだ。しかし、これらの市場価格が商品の真の社会的価値を反映すらしないかもしれない。簿記は、経済理論家によって愛されている一つの例だ。ミツバチは、市場で売ることのできる蜂蜜を作り出す。しかし、彼らはまた、購入されたり価格付けされたりしない有益なサーヴィスである、近くのリンゴの木の授粉をする。
 

ミツバチ計量機

その報告の著者たちほどそれらの制限に気づいているものはいない。彼らの推計は、決定的ではなく、例証的だ、とパーサ卿は語る。その計算は、70年以上前に最初のGDPの見積もりが未熟だったように、未熟であることが避けられない。彼は、より多くの経済学者が、価格がないもののように見えるものの価格付けに、厳しいが価値のある仕事をすることを望んでいる。その職業は、本当にはその仕事に報いていない、とパーサ卿は語る。しかし、経済学者の中には、いずれにしてもそうしているものもいる。ヴァーモント大学のテイラー・リケッツとその共著者は、あるコスタ・リカのコーヒー生産者が二つの近くの森の区画の野性のミツバチから年に6.2万ドルの利益を得ていることを示して、授粉の価値を計算すらしている。

今、経済学者は、そのような富が計測可能だということを示しているので、彼らは、それがなんと呼ばれるべきか決めなければならない。その初期の学問的仕事で、パーサ卿はそれを、「総合的富」と呼んだ。その国連報告は、それを「包括的富」と名付ける。もしその概念が人気を博するのならば、どちらの名前も必要ではないかもしれない。「かなりすぐに」パーサ卿は語る。「我々はどちらの形容詞も落として、単に富と呼ばなければならない。」

Free Exchange欄より
 

発行日: 
2012-06-30
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