政治ゲームとしての芸術 - ヴェネツィア・ビエンナーレ

世界最大の芸術イヴェントでの芸術家の間の競争がこれほど激しかったことはない。しかしビエンナーレの国別パヴィリオンで何が起きているのか?

1895年にヴェネツィア・ビエンナーレが始まって以来、各国はその芸術家に国別パヴィリオンでの展示を命じてきた。イタリアのように文化省を通して金融支援するものもあれば、英国のように外務省を通すものもある。ウクライナ館は個人収集家によって提供され、ポーランドのものは複数の資金源があっ た。55年間、20より少ない参加者だったが、1950年にその数は増え始めた。今年、バーレーンとレバノンの最終段階でのキャンセルにもかかわらず、 89の国別パヴィリオンがあった。それは過去最大で2年前の77より増えており、現代アートの世界的広がりの証明だ。

ヴェネツィア・ビエンナーレの規模は、芸術家、文化機関、そして個々の国のいずれも、ただ注意を引くためだけではなく、国際的な認知のためにみんな競っていることを意味する。国別パヴィリオンはいろんな形をとるが、本当にインパクトがあるのはほんの一部だ。

遊園地の雰囲気は、貴重なものよりもむしろ、記憶に残る経験として芸術にプレミアムを与える。説得的な概念環境を提供するパヴィリオンが一番賛美さ れる。多くのヴェテラン展示者はこの道を選ぶ。その祭りの最高の栄誉である、熱望された、ゴールデンライオン賞を今年勝ち取ったドイツがそうだ。しかし、芸術家の間でもっとも人気があったのはスイス館だ。トーマス・ヒーシュホーンの「抵抗のガラス」は既製品による特異な世界を作り出した。秩序だって中立というよりも、無秩序で政治的なこのパヴィリオンはスイスに対する固定観念に挑戦した。ハーシュホーン氏は、政治当局やファッション、そして芸術市場に迎合することを拒否した独立精神の持ち主だ。彼の展示は壊れたガラス、銀ホイル、段ボール、綿棒、プラスティックの椅子、古い携帯電話、そして解像度の低い戦争写真のカラー印刷に満ち、すべては茶色のダクトテープでくっついており、ハーシュホーンの主題として認知できる。それは高級品を展示するブティックへのアンチテーゼだ。

予期しない政治声明はヴェネツィアで注目を集める別のやり方だ。イスラエルのヴィデオアーティストのイェール・バータナに委ねられたポーランド館ほどそれを効果的に行ったところはない。そのパヴィリオンは、ユダヤ人の東ヨーロッパへの帰還を求める芸術家によって作られた政治集団であるユダヤルネサン ス運動についての三部作の映画を放送する。バータナ女史の創意に対するポーランドの包容力は上品な国柄とみなされ、芸術批評家に高く評価された。

それに対して、予想された政治姿勢は、変わることなく、堂々と、もしくは虚しくやってきた。アメリカ館の外で、アローラとカルツァディーラと言うプエルトリコからの若い二人組芸術家は、「トラックとフィールド」を展示していた。オリンピック競技者がひっくり返った戦車の上に登って足踏み水車を動かしているものだ。戦争はどこへもいかないというメッセージは、。それが動いている時にその仕事によって生み出されたラケットと同じくらい退屈だ。より成功し たのは、その芸術家たちがパヴィリオン内に展示した彫刻だ。「アルゴリズム」はパイプオルガンと完全に動くATMマシーンだ。芸術愛好家がその作品からユーロを引き出すとき、轟きわたる聖歌のような和音に圧倒されるのを感じる。

アラブ世界の進行中の暴動を受けて、サウジアラビア館は、二人の姉妹が外国旅行するときヴェールをなしですませたから、と言うわけではなく、コメントを求められた。芸術家と作家であるシャディアとラジャのアレム姉妹は「黒い門」と名づけられた巨大な彫刻を展示した。

その作品はメッカと関係するが、彼らが自分たちの作品を宗教に従属するものと見たり、曖昧にそれを持ってコンペティションに参加したかは明らかではない。新参加者は、時々、芸術家が観光局に雇われた公務員であるかのように自分たちのパヴィリオンが彼らの国を代表すべきだと考える。アゼルバイジャンの作品はこの運命に陥っている。モスクワで活動するアゼリー人の芸術家、エイダン・サラコヴァは二つの彫刻を展示した。黒いヴェールをかぶった女性を表した 「待っている花嫁」と、巨大な膣のように見える大理石彫刻の「メッカの黒い石」だ。アゼルバイジャン大統領のイルハム・アリエフは、しかしながら、彼女の作品に立腹した。その彫刻は白いシーツによって多くの観覧者の目から被い隠され、すぐに取り除かれた。

初心者に言い訳は許されるが、なぜ今年のイタリア館が郊外のモールのアマチュアの芸術バザーのように見えたのか理解できたものはほとんどいなかっ た。気取ったテレビ司会者としてよく知られている芸術史家のヴィットリオ・スガルビによって企画推進され、「芸術はコーザ・ノストラではない」と銘打たれた。もし国別パヴィリオンが国の芸術に対する姿勢を、自発的な創造活動、革新の兆し、そして広報やプロパガンダの道具としてすら表すのなら、すべてのビエ ンナーレのおばあさんに当たるこの祭への訪問者は、イタリア人が現代アートを安っぽい商店街で見られるような思考力のないコピー商品のように考えてるように見えることに驚くだろう。

 

発行日: 
2011-06-11
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