壁の飴 - ウォルポールの名画

エカチェリーナ2世によって飛びつかれた伝説的な英国芸術蒐集が、250年後に戻ってくるが、ほんの数か月間だ

1742年、英国の初代、そして最も長く仕えた首相である、ロバート・ウォルポール卿はついに退職した。20年以上にわたって、ウォルポールは大蔵大臣として得たその巨額の富を使って、ヨーロッパの偉大な民間蒐集品と競り合う美術と芸術の蒐集品を作り出した。

ノーフォークのホートンにある彼の父親の家の跡地に建てたパラディオン邸宅に、ウォルポールは、ダウニング通り10番地を含んだ彼の様々なロンドンの家を飾った絵画をまとめた。ルーベンス、レンブラント、そしてヴェラスケスによる肖像画が、当時もっとも流行の建築家だったウィリアム・ケントによって設計された内装の中に、パオロ・ヴェロネーゼによる名画に並んでつるされている。3年間、ウォルポールはこの栄華にふけり、彼の支出についてのどんな書類仕事も破壊した。

しかしながら、1795年の彼の死で、彼の子供たちは、現在の価値で540万ポンド(840万ドル)相当の、5万ドルを超える負債を彼が膨らませていたことを見つけた。浪費した孫によってその資産が続いて破壊されたのとともに、これが1799年に204の作品をロシアの女帝エカチェリーナ2世に壮大に売ることを強いた。

ウォルポールの蒐集品の購入は、当時彼女の大帝国蒐集計画の15年目にあったエカチェリーナ2世の勝利の瞬間を示した。イングランドの多くの人々は、提案されたロンドンのナショナル・ギャラリーの基礎をなしたかもしれないと望んだものを嘆いた。代わりに、ホートンの宝は、サンクトペテルブルクの国立エルミタージュ美術館の常設蒐集品の一部となった。今、外交的寛大さの姿勢で、その絵画のうち70点が海外展示のために英国に戻ってきている。

「ホートン再訪」は、その夏のもっとも引っ張りだこの展覧会チケットの一つとなることを約束する。そのホールの華やかな内装は、ウォルポールの子孫チャムリー候によって、それらの絵がもともと展示されていたのと正確に同じように置くように、回復されている。訪問者にあいさつするのは、バロック盛期の現代風に影響を多く受けた立派な富と文化的眼識の明白な展示の再現だ。大胆なダブルハイトの大理石のホールは、素晴らしい蔵書とヨーロッパで当時もっとももてはやされた芸術家たちの絵画の選抜と並んで、タペストリーで満たされている。

外国旅行するには忙しすぎたウォルポール氏は、彼のための宝物を探し出すために、末息子の名高い作家で蒐集家でもあったホラス・ウォルポールを含んだ様々な代理人に委託した。それらの絵画は、大陸中に広がる政治的個人的関係の記録を形成する。コモン・パーラーとして知られる部屋には、スコットランド人の芸術家で取引業者のアンドリュー・ヘイによってウォルポールのために追い求められた、ヴェラスケスによる教皇インノケンティウス10世の鮮やかなスケッチがつるされている。ニコラ・プッサンによる『聖エリザベツと洗礼者聖ヨハネをともなう聖家族』は、パリの英国大使によってウォルポールの所有物にそっと入った。今、それはケントの天井画『エンデュミオンの眠り』の下で、ケントがそのために作ったフレームの中に掛け直されている。アンソニー・ヴァン・ダイクによる、顔の決闘傷を覆う布まで描いたガーターローブに身を包んだダンビー伯ヘンリー・ダンヴァースの英雄的な先祖伝来の肖像は、男爵の称号を与えられ続けたジョセフ・ダンヴァースによって贈られた。それは今、壮観なマーブル・パーラーの一方の橋に、一時的にそのかつての相方だったヴァン・ダイクのバス勲章騎士トマス・ウォートン卿の魅力的な肖像の反対側に、つるされている。

それらの絵画の復帰は、ホートンホールの美術館としての一時的指定、複数の政府保証、そしてキュレーターのティエリ・モレルによるその後に貸し出されたり売られたりした絵画の根気強い追跡を必要とした。コモン・パーラーには、ロードアイランドのニューポートで突き止められたピーター・レリー卿による2枚の肖像画が、二つのドアの上に回復された。元々の枠に彫り込まれたウォルポール家のサラセンの頭の紋章は、大理石の先端を持ったテーブルの上の同じ家紋と韻を踏んでいる。ここでも、ゴドフリー・ネラー卿によるグリンリング・ギボンズの高貴な肖像がかつて彼に帰せられた精巧に掘られた装飾泰の中の壁に取って代わっている。

ウォルポールの時代以来ほとんど触れられていない大広間は、その一つは指の幅の距離でその建物に作り直されただけの最大のカンヴァスの一つが掛け直されている。これらには、ルカ・ジョルダーノの大きな神話上の一組で、どちらも1682年にまでさかのぼることができる『パリスの審判』と『眠れるバッカス』が含まれる。ウォルポールはイングランドでのカトリックのジャコバイト運動への反対で知られていたが、それは、そのすべてがここに絵画がある、サルヴァトール・ローザやサッソフェラートと同様に、バルトロメ・ムリーリョの作品を賞賛することを止めなかった。

ウォルポールのイングランドのゲストの多くは、カトリックの敬虔さのこれらの明白な表現に慣れていなかっただろう。彼の最も厳しい政治的反対者の一人オックスフォード卿は、訪れたときにかなりの興奮を表現した。「我々はそれからその絵の別の見方をとり、実にそれらはとても美しい。見れば見るほど、賞賛し、欲するのだ。」

ホラス・ウォルポールは、「最初の反乱で木造の宮殿で焼ける」だろうことを恐れて、その収集品をロシアに売ったことをいつも後悔していた。しかし、運命のねじれによって、その販売は絵画を救った。それらが去った10年後の1789年に、ホートンの絵画館は火災によって破壊されたのだ。
 

発行日: 
2013-05-18
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