絶望の限界 - チベットの未来

チベット高原での暴動の爆発から5年後、その地域は再び危機にある。

中国の青海省の小さな修道院の中で、赤い僧衣を着た僧が、監視されているのかを確かめるためにあたりを見回した後、啜り泣きを始める。「我々はただダライ・ラマに故郷に帰ってきてほしいだけなのだ。」彼は言う。彼の言葉は、過去2年間チベット高原中の公共の場所で彼らが焼身自殺しているのかを説明しようとする何十人ものチベット人の言葉にこだまする。中国国内でのダライ・ラマの支持者の間で絶望が増している。彼らの黙らせようとする政府の努力もそうだ。

チベットの首都ラサでの反中暴動と多くの町や修道院でのデモを含んだ、5年前の今月のチベット高原を覆った暴動の勃発以来、共産党は飴と鞭でチベットの不満を管理しようとしている。鞭は、修道院のよりきつい警備、ラサへの訪問管理、ダライ・ラマの弾劾、そして反対派の逮捕を伴っている。飴は、泣いている僧の修道院からそう遠くないところで見ることができる。巨大な草地を渡る新しい高速道路、離れた村への新しい道路、僧へのより良い住居、そして彼らの礼拝所の回復だ。しかし、現代政治史の中で最大のそのような抵抗運動の一つである、ほとんどが過去2年間で100人以上のチベット人が自分に火をつけるという光景は、どちらのやり方もうまくいっていないことを示唆する。

チベット高原の影響を受けた地域での強烈な取り締まりにもかかわらず、またはたぶんそのために、ここ数か月の焼身自殺はより広い地域(その高原はアメリカの1/3の広さがある)にわたって広がっており、修道院につながりのないより多くの人々を伴っている。その政府の増す心配は、チベット自治区の首都であるラサと同様に、ほとんどが四川と青海のチベット人居住地域である最も影響を受けた地域での強烈な治安で明白だ。去年から、その政府は、チベット人が焼身自殺するよう励ましているとみなされた人々を検挙している。何十人もが拘束されている。何人かは、数か月から終身に至るまでの長さで投獄されている。

隣接する省での困難な場所と同様に、すべてのチベット自治区は、ほとんどの外国人記者を立ち入り禁止にしている。しかし、緊張は、行くことができるままになっている数少ない地域でさえも、明白だ。2月終わりのチベット新年のお祝いの間に、少なくとも3台の消防車が、青海の省都西寧のそばのクンブム修道院複合地区の内部に止められた。何十人もの消火器と消防カヴァーを持った警察が、巡礼者と休日の行楽客の群衆の中にたった。だいたいスイスの広さのチベット人が多数派を占める地域の、西寧の西にある海南チベット族自治州では、誰も焼身自殺を図ったとは報じられていない。しかし、当局は恐れている。11月に何十人もの医学生が、犠牲者やダライ・ラマを貶した政府ちらしの配布に反対して、共和県でデモを行った。住民は、警察がその町でのデモを解散させるために催涙ガスを使い、数人の参加者を逮捕したという。県当局は、そのデモを「違法」だとし、海南の若者たちに(比喩的な)「分離主義、侵入、そして焼身自殺に対する銅の壁と鉄の城壁」を形成するよう要求した。

ほとんどの少数民族は、中国支配のもとでかなり平和的に生活しているが、チベット人たちは新しくなった暴動に多くの理由を引用する。(交通社会資本への巨額の政府投資に励まされた)漢民族移民の継続的な流入、鉱業と建設によって引き起こされた環境被害、学校でのチベット語の限界化だ。(77歳の)ダライ・ラマの高齢化と彼が2011年にインドにあるチベット亡命政府の長から引退すると発表したこともまた要因だ。生仏ダライ・ラマの今回の転生が長くないかもしれないという増大する感覚が、1959年の蜂起に失敗した後に彼が逃れた地に戻ってくるようにという要求を加熱している。
 

亡命が長すぎる

「この人生で、少なくともチベット人の苦闘の分野での奉仕は今すでに終わった。」彼の家であるインドの町のダラムサラでダライ・ラマはたどたどしい英語で語る。彼は今、宗教的調和の推進と、仏教と現代科学との間の対話に捧げている、と彼は語る。中国は納得していない。コロンビア大学のロバート・バーネットは、ここ数週間中国の高官はますます「ダライ・ラマ一党」が焼身自殺を組織していると非難している。

バーネット氏は、中国がダライ・ラマの代表との話し合いを再開することによって緊張を和らげようとする可能性があるという。そのような会議は、両者がチベットが中国の一部にとどまることを受け入れる一方でチベットの「真の自治」への使節たちの求めに関する違いについての行き詰まりに達した2010年1月以来、開かれていない(インドにいるチベット人の中には依然として独立を望んでいるものもおり、亡命者たちの間の紛糾の原因になっている)。中国の高官は、自治の妥協すらも完全な独立を成し遂げるための枠組みだとして非難している。中国の他の懸念の中には、チベットがチベット自治区プラス近隣省のチベット人居住地域の、中国の1/4の大きさにあたる地域だと定義されるという提案がある。
 

眠れる悪魔

ダライ・ラマの引退は、話し合いの再開をより難しくしうる。2011年8月に、5万人近い亡命チベット人が投票した選挙に勝った後で、ハーヴァードの学者のロブサン・センゲが、亡命政府の長とかつてダライ・ラマによって演じられていた想定上の政治的な役割を引き継いだ(中国の高官がダライ・ラマを表現するために使うと彼が言う言葉を参照して、その聖人は「いま悪魔は平和的に眠っている」と皮肉を言う)。センゲ氏は、もし中国がダライ・ラマの代表を望むのならば、依然として話し合いを持つことができると語る。しかし、これらの使節はチベットでの「悪化する状況」と中国が自治の提案に対して「積極的な反応」をできなかったことを引用して6月に辞めた。センゲ氏が引き受けている権力の中には、まだ選ばれていない使節の後継者を選ぶ権利がある。これは、新しい亡命政権に正統性を与えることを恐れて、中国が交渉を始めることを慎重にするだろう。

インドにいるチベット人の中には、3月17日に中国の国会である全国人民代表者会議の年次総会の終わりの少し前に、習近平を国家主席に、李克強を首相に任命することで完成するだろう、中国の10年ごとの指導部の交代にかすかな望みを見る者もいる。習氏の前任者胡錦濤は(2008年のはるかに大きな勃発を制圧したように)決然と抑えた1980年代後半の暴動の勃発の間に、チベットの党書記だった。思索を巡らす習氏は、違っているかもしれない。1950年代に、ダライ・ラマは、毛沢東の同志の一人だった習氏の今は亡き父親習仲勲と知り合っている。彼は、ダライ・ラマから腕時計を受け取り、それをインドへ飛んだあと長く身に着けた。もしその父親がダライ・ラマに好意を持っていたのならば、その息子もそうかもしれない。

ここ数か月、クンブム修道院の30キロ南東にあるホンギャ村のダライ・ラマの生誕地は、誰にも理由はわからないが、作り変えられている。高原の他の所でのダライ・ラマ崇拝の弾圧にもかかわらず、その灰色の壁の屋敷への訪問者は、彼が帰ってきたときに座るための金の玉座と同様に彼の写真を見ることができる。ある世話人は、(新しいレンガと塗料を含んだ)最近の改修の資金は政府から来たという。彼女は、外国人は内部は許されていないが、その場所を見るために何百キロも運転してくるチベット人巡礼者集団を喜んで案内するという。しかし、亡命した役人は感銘を受けず、ダライ・ラマは警戒している。「いくらかの具体的なことが起こるまで待つのが良い。さもなければ、失望だ。」彼は含み笑いをして語る。

実に、失望は依然として現れそうなのだ。習氏は中国のチベット政策を変えるよう他の国々からほとんど圧力を受けていない。2008年の暴動は、中国がオリンピックを開催する準備をしていた時に起こった。それは、そのイヴェントが、その国が開放的な世界の大国として現れるのを記録するようになってほしいと思っていた。にもかかわらず、それはデモに対して強硬に弾圧したが、国際的な要求への譲歩として、ダライ・ラマの代表との話し合いを2か月以内に再開した。大会が始まるまでに2回が行われたが、明らかな進展は何もなかった。

2008年以来、西側の経済的沈滞は、中国を更にチベットについての西側の説得に対して従順ではなくしている。その問題についての中国の怒りっぽさを減らすことを望んだ英国は、去年の10月に(西側の中でユニークだった)中国がその地域に主権を持つというよりもむしろ単に「宗主権」を認めるという100年にわたる政策を放棄すると発表した。それは何の明白な報いも得られなかった。英国の中国との関係は、去年5月のダライ・ラマと英国首相デヴィッド・キャメロンとの間の会談の後で長く続く冷たいものに突っ込んだ。北京の新聞環球時報は、先月、中国がその二国間関係で「英国よりも大きなレヴァレッジ」を持っていると言い、いくつかの正当化を付け加えた。「中国に対して本当に厳しくできる余裕のある国はほとんどない。」
 

分割できない一つの国

習氏は中国国内で、固いグリップを維持すること以外には、大衆やエリートの意見からほとんど圧力を受けていない。中国の知識層の中には、政府のチベットでの強硬姿勢が長く続く安定をもたらすのかについて疑問を持っているものもいる。その国の多数派である漢族の少ないが増えているように見える数が、チベット仏教にひきつけられている(クンブム修道院への漢族の訪問者は、最近のお祭りの間にその彫像の周りに人だかりをなし、お祈りとしてその手を握りしめた)。しかし、ダライ・ラマへの自治での譲歩は中国でほとんど支持を得ていない。

チベット人がインドに逃れるのを止める一段上の努力のように見えるものが緩和されると予想する観察者はほとんどいない。2008年以前には、年に2-3,000人がそうしていた。これは、その都市の暴動の後、数百に下がった。新しい難民センターは、2011年にアメリカの資金で500人の収容能力を持つものが、ダラムサラに開設された。2012年に、400人以下しか逃れてこなかった。3月の初めに、四川省のチベット人地区からのカップルの二人だけしかそこにいなかった。彼らがその村を去る前に、彼らはインドに行かないという書類にサインしなければならなかった。チベット人にとって、ラサを訪れることさえも許可が必要だ。去年、神聖な仏教遺跡ブッダガヤでのダライ・ラマの教えに内密に参加した合法的なインド旅行から帰った後に、何百人もが拘束され、その何人かは数か月にもわたった。

暴動警察がラサの街路を警備していることを含んだチベットの重い治安は、2008年のもののような別の高地全体にわたる爆発を妨げる役に立つかもしれない。しかし、チベット人が自分の火を放つ光景と、彼らを中傷する公的な試みは、その地域の傷を深めている。解決の機会はほとんど目に入ってこない。そのすすり泣く僧侶は、青海の玉樹県での地震の後に、役人たちが犠牲者の何人かに必要なことを聞いたのを思い出す。彼らは、ただダライ・ラマに戻ってほしいのだ、と答えた。「彼らは我々を支配できる。」その僧侶は語る。「しかし、彼らは我々の心は支配できない。」
 

発行日: 
2013-03-09
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