戦争に飽き飽きした - ギニア=ビサウ、ギニア、シエラレオネ

なぜ、その大陸の多くにわたっての戦いが近年静まっているのか

バスのヘッドライトが、国境を越えた最初の関門の垂れ下がったブッシュの間に立つ、肩に銃をかけた兵士の濡れた人影を浮かび上がらせる。彼は雨の中から急いで暖かいバスに入り、ほとんど思いつきのように彼がその国を通る短い旅をエスコートすると発表する。「我々は止まるが、誰も降りることができない。」彼は語る。

数日前、将校の一団がギニア=ビサウで権力を握った。これは異常なことではない。150万人の小さな国は、過去10年で5回のクーデターを経験している。1974年にポルトガルから独立して以来、任期を完遂した大統領はいない。しかし、これはセネガルからより大きな隣国であるギニアへそして更にシエラレオネとリベリアへのバスにはめったに問題を起こさない。今日のスケジュールのたった一つの変化は、首都のビサウでの正規のバス停で、乗客は乗るかもしれないが、降りることはないということだ。

その兵士は帽子を絞り、不便をわびる。「わかるだろ。」地元の人々はうなずき、それから彼に長広舌を始める。「雨が降っているのはお前のせいだ。」一人が叫ぶ。乗客たちは笑う。彼らは開発の欠如を手におえない軍のせいにする。時折の殺人だけでも十分に悪いが、腐敗はさらに悪い、と運転手は言う。

政治的暴力は政府機関を侵食しており、外国投資を遠ざけており、医療と教育をぶち壊し、不平等を増す。ギニア=ビサウは、暴力的な混乱による機能障害性を与えられたアフリカの国の絵に合う。

しかし、その絵はそれほど一般的ではなくなっている。その大陸中のいくつかの大きな紛争は消滅している。過去10年かそこらで、50万人の人々が亡くなった後でアンゴラは戦いをやめ、チャドは4つの内戦の後で平和になった。エチオピアとモザンビークでは、戦争は10年早く終わった。暴力は、いつもそのように感じられるわけではなくとも、広く減っている。

スイスの調査計画スモール・アームス・サーヴェイは、(戦争を含んだ)一人あたりの暴力による死の数で測ると、いくつかの過少報告があるかもしれないが、たった二つのアフリカの国、南アフリカとレソトが、上位10か国にランクされている。アフリカでの武装紛争の数は、冷戦終了時の少なくとも30から現在の1ダースを少し超えるところまで着実に減っている。同じ期間に成功したクーデターの数は2/3に減っている。2000年に、アメリカの評論家ロバート・カプランは、「アナーキーの到来」という本の中で、アフリカのような場所では暴力的な泥沼に、かつてないほど深く沈むだろうと予言した。彼は間違っていた。

(スウェーデンのウプサラにある北欧アフリカ研究所によって、年に1,000人以上の死を持つものとして定義された)三つの主要な紛争は続いているが、それらですらも平和的な解決に近づいているかもしれない。スーダンは2011年に南が独立した後で、ゆっくり自身を改善している。コンゴの東部には暴力が残っているが、その国のほかの部分の主要な懸念は、戦争ではなく貧困だ。ソマリアでは、国際的な連合軍がここ何年かで初めて首都のモガディシュに平和をもたらしている。建設中の場所の方が、今では爆破される場所よりも多い。確かに、新たな一群の紛争がサハラの周辺で起こっている。イスラム過激派はマリなどの政府を侮っているが、地域や西側の大国は遅ればせながら反撃している。
 

黄金のギニア

ビサウ郊外のシャッターの降りたバス停に少し止まった後で、そのバスは事故もなく国境に到達した。ここから南へ延びる道路は、一時は、全アフリカの中で最もひどかった。少年兵は、「短いそでか長いそでか?」と訊ねることによって捕虜をあざけり、それから肘の上か下かで腕をたたき切ったものだ。その地域は残酷さの模範だった。しかし、その最悪のものは、戦争疲れと国連の平和維持部隊による特に有効な介入のおかげで、かすんでいる。

木の生えた渓谷を通っての邪魔されない旅の後で、そのバスはコナクリに到着する。そのギニアの首都は、波立つ大西洋に広がる狭い岩がちの半島にある。その町ははち切れんばかりにいっぱいで、交通は混雑している。すべての小道は小売り空間だ。漁師はその獲物を日陰でひもにつるす。ヒルトンとラジソンは、滞在する投資家のためにホテルを建設している。家の価格は離陸している。国際線は、港のバースのように込み合っている。

その国をひどく貧しくした何十年にも及ぶ悪政と軍事クーデターの後で、ギニア人たちは2010年に長期にわたる野党指導者のアルファ・コンデを大統領に選び、彼は素早く将軍たちの翼を刈り込んだ。防衛大臣は今では弁護士によってうまくやられている。

民主主義への移行を加速した事件は、2009年の運動競技場での150人の虐殺だった。その凶行に責任がある軍指揮官はムーサ・ティエグボロ司令だった。彼は責任を問われ、どうやら逮捕を恐れている。依然として制服を着た彼は、事務所の外に9つの監視カメラを設置している。「私は外国に行きたい。」彼は記者に語る。悲しいことに、それは実際的ではないかもしれない。ハーグの国際刑事裁判所(ICC)は、彼に対する訴訟を打ち立てるために予備的調査を始めている。コナクリは占領下の町のように感じられたものだ。現在では、空気はピリピリしたままだが、ほとんどの関門は無くなっている。政府は野党デモに高圧的に反応している。法制度はべとべとになっている。全国バレーボール協会でさえも、民族的分断は持続している「グラスには半分しか入っていないと言おう。」ある政府大臣は認める。

南のシエラレオネへの陸路に戻ると、主要な障害物は交通だ。国境警護は国境を越える車の列に片手を振り、もう片手に携帯電話を握る。彼はいらいらしたガールフレンドをなだめようとしている。「そう、そう、かわいこちゃん。」彼は繰り返している。

シエラレオネは5万人を殺した11年にわたる内戦の後でまるまる10年の平和を経験している。発展は遅く、ほとんどの人々は貧しいままだ。肥沃な土壌とたくさんの雨にもかかわらず、自国の農業は十分に生産するにはあまりに非効率なので、米は高額でタイから輸入している。しかし、少なくとも暴力は珍しくなっている。公式統計によると、平均して年に700万人のうち100人以下しか殺されておらず、それはニューヨークの率の1/5だ。民間の銃所有は禁じられている。多くの銃を集めた世界最大でおそらく最も成功した国連の平和維持部隊を歓迎して10年もたたないうちに、シエラレオネは国連軍をスーダンの似たような仕事に送るのに十分なほど安全になった。

最近、その国民は、反乱軍が首都フリータウンの一部を侵略し、1度の襲撃で6,000の市民を殺した1999年の事件についてほとんど話さない。ビーチでサッカーをしている素早い戦争で四肢を失った人々は、数少ない生き残りの何人かだ。「ここは安全だが、私は腹が減っている。」一人が言う。2012年に、(民主的に選ばれた)政府は、鉄鉱石の輸出のおかげでGDP成長が32%に急上昇したと語った。IMFの推計はより低いが、大きくは離れていない。

フリータウンを過ぎると、青々とした尾根が海に下っている。デヴィルズ・ホールという町のそばのマンゴの木に囲まれた家で、1992年に25歳の軍司令官として権力を握り世界で最も若い国家元首になったヴァレンタイン・ストラッサーは住んでいる。「ヴァル」彼の母親は叫ぶ。「お客さんだよ。」彼は、カットオフのジーンズをはき、酒の嫌なにおいをさせて、下によろよろ降りてくる。依然としてそう呼ばれることを好むストラッサー司令官は、脇に追いやられている。しかし、他の戦時の指導者たちは権力の地位を保ち続けており、安定を妨げるよりもむしろ助けている、と内部者は言う。元法務大臣のデスモンド・ルークは有望だ。「デスモンドがまた暴力に訴える?私はそうは思わない。」彼は言う。「我々は自分たちの教訓から学んでいる。」
 

戦争の一部始終

アフリカを暴力的ではなくするのに何が変わっているのか?三つの要素が役割を演じている。一つ目は、20年前に冷戦が終わった後、アメリカとロシアは、単にお互いの支配から出させるためにしていた暴力的な独裁者への支持をやめた。最初は、これはより多くの紛争をもたらした。アメリカの子分のコンゴのモブツ・セセ・セコのような大物がその生活のために戦い、その中にはロシアの武器密輸商人ビクトル・ボウトによって供給された民営化されたソヴィエトの兵器工場からの武器を持っていたものもいた。しかし、より長期的には、超大国からの支援の欠如は反乱軍と同様に正規軍からも続ける手段を奪っている。

二つ目に、西側の姿勢も変わっている。ヨーロッパは特にアフリカではびこる人権侵害に目をつぶってはいない。2002年のICCの設立は、法的と武力を用いたものの両方で、リベラル介入主義に向かった動きを記録した。ノルウェーの高官は、スーダンでの平和交渉で鍵となる役割を果たした。英国軍はシエラレオネの戦争を終わらせた。平和維持活動は、紛争制止活動に進化した。国連は介入とその後の片付けにうまくなっている。シエラレオネのもののような武装解除作戦は、有益であることを証明している。2007年に始まった国連とアフリカ連合の合同ミッションは、1993年のアメリカの遠征軍よりも進歩している。

三つ目に、アフリカの戦争のいくつかは、自分たち自身を焼き尽くした。民族間対立が紛争のもっとも一般的な原因なので、ほとんどが国内で行われる。内戦は、しばしば何年もたった後に、片方か両者が疲れ果てた時にふつう終わる。1960年代に先鋭化した活動は、世紀の変わり目には最強硬の反乱ですらも疲れている。アンゴラのゲリラ指導者ジョナス・サヴィンビが30年にわたる戦争の後に2002年に殺された時、彼の部下たちはあきらめた。政治的な傷は必ずしも癒される必要はないが、それらは傷ついた細胞組織を覆っている。市民たちと同様に戦士たちも徐々に現状維持を受け入れている。彼らは戦争にうんざりしているからだ。時々、それは十分に良い。

南への道の次の停留所リベリアは、これを知りすぎるほどに知っている。それは、1989年に始まった2回転の内戦を経験した。1年以内に、プリンス・ジョンソンと呼ばれる軍閥が、最初はアメリカの支援を受けそれから失ったたちの悪い独裁者のサミュエル・ドウが殺された。戦士たちは最初にドウの耳を切り刻み、一方ジョンソン氏はビールを飲みながら看護婦部隊の女性に団扇であおられて見物した。その映像はその後切り取られたが、翌朝ドウは死んだ。戦いは、敵対する軍閥のチャールズ・テイラーが選挙で選ばれるまで、さらに6年間続いた。それほどかからずに長く続く緊張が二度目の内戦を引き起こした。リベリア人はさらに6年間戦ったが、2003年に国連がついに大きな平和維持軍を展開し、それはまだその国にいる。ICCの助けで、テイラー氏は隣国のシエラレオネで犯された戦争犯罪で訴追され、最近50年の刑を宣告された。

リベリアに戻ると、告発のためには平和は依然としてあまりにあやふやだ。その国は今や住んでいるが、平和ではない。その政府は民主的に選ばれたが、弱々しい。国連が治安部隊を運営しているが、政府が戦争犯罪人で散らかっていることを知っている。「和解の1形態」と国連の高官は皮肉を言う。ドウ(とほかの多く)を虐待して殺したジョンソン氏は今は議員だ。彼のヴィラの庭にある伝統的な「無駄話ハット」に座り、きらびやかな緑のトルコ帽をかぶった彼は言う。「私は誰も告発されるべきだとは思わない。アメリカの南北戦争でだれが告発されたのかね?」

彼がかつて戦争で率いた兵士の中には、近くのほろの下の遺棄された建物に住んでいるものもいる。彼が徴兵した時にたった5歳だったものもいる。今では彼らは冷酷な目をして無職の男たちだ。だがしかし望みもある。彼らは、戦争時にほかの軍閥に属していた200人の兵士たちとともに一つのコンパウンドに調和して住んでいる。両親が殺された後に7歳で殺しを始めニックネームのドミネーションというのだけがわかっている22歳の男は説明する。「我々は過去は過去だと決めた。復讐はない。それは更なる災害だろう。」しかしリベリアは、40万人のジェノサイドを行ったものたちをガチャチャ共同体法廷で審理したルワンダや真実と和解委員会の使用を開拓した南アフリカとははるかに隔たりがある。

国中で、暴力は依然として時に燃え上がるが、今では、信頼できる電力がないために信号のない町のモンロヴィアから飛び出し、かつては子供たちの戦闘部族によってテロに脅かされた草木の生い茂った内陸へ行くことは完全に可能だ。車がはまり込むのに十分な大きさの穴ぼこの開いた舗装道路は、コートジボワールとの国境に続いている。逆側には奇跡が待っている。滑らかな舗装道路だけではなく、日中でさえも何気なくついている信号があるのだ。

コートジボワールはかつてその地域の真珠だった。旧宗主国のフランスが1990年代に大物による支配の支持をやめ民族間緊張が燃え上がる原因となった時、それは崩れてけんかを始めた。最後には兵士たちは疲れて選挙を行い、それから再び戦った。2011年に、フランス軍が民主主義を取り戻すために介入した。その国の商業首都で鼓動する心臓であるアビジャンは、再びキラキラ輝いている。

これはアフリカの新たな傾向かもしれない。戦争は(もっとも最近には中央アフリカ共和国で)燃え上がるが、普通はかつてほどには暴力的ではない。民族間、宗教間の緊張は残っているが、軍隊はその兵舎でより長く時間を過ごす。市場経済の成長と民主主義の広がりで、土地紛争と選挙をめぐる戦いが点滅し、それから再び消え去る。その大陸は完全に平和というわけではないが、かつてよりも安全だ。

Emerging Africa欄より
 

発行日: 
2013-03-02
雑誌名: 
記事区分: 
主地域: 
主カテゴリー: 
キーワード: 
0
まだ投票はありません

コメント

コメントを追加