ヴァン・クライバーン

ロシア人とアメリカ人によってアイドル化されたハーヴィー・ラヴァン・“ヴァン”・クライバーンは、2月27日に78歳で亡くなった

彼はあまりに早くピークを迎えた、と彼を中傷する人は言う。しかし、ピークとは何か。彼はテレビ時代の最初のクラシック音楽スターだった。紙テープの舞うパレードで祝われたただ一人だった。アルバムを100万枚売った最初の人だった。とりわけ、彼はその大きな手、穏やかな作法、そして偉大なロシアの作曲家の電撃的な演奏で、冷戦の霜を払い落としたテキサス人だった。

それはたまたま起こった。軍隊の医療チェック(彼は鼻血を出した)に失敗して、アメリカでもっとも見込みのある若いピアニストは1958年に空白のシーズンに直面していた。彼の先生移民ロシア人のロジーナ・レヴィーンは、モスクワでのチャイコフスキー国際コンクールを提案した。

音楽以上のものが問題となった。冷戦はもっとも冷え込んでいた。新しいスプートニクは、宇宙での競争とほかの所で負けていることを恐れた地表から離れられないアメリカ人をあざけるようにビーッとなった。

クライバーン氏は敗者ではなかった。彼は12歳の時に最初のコンクールに勝ち、14歳でカーネギーホールで演奏した。彼は審査員団のスヴャトスラフ・リヒテルなどの巨人たちにたじろがなかった。(クレムリンの写真集にひきつけられて)子供のころからのロシア好きの彼は、モスクワに行くことがただうれしかった。

その感情は相互的だった。彼は予選でセンセーションを起こし、準決勝でスターだった。(ほかの演奏者によると、彼が「長く深い一息で演奏した」)ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番の最終和音までに、モスクワの音楽愛好家は彼の足もとに膝まづいた。オーケストラさえもスタンディングオヴェーションに加わった。8分後、モスクワ音楽院のすべての伝統に反して、彼は2度目のお辞儀のために戻ってきた。

判定はそれほど熱狂的ではなかった。ソヴィエトの演奏者レフ・ヴラセンコを押し上げるために彼の得点をそり落としたものもいた。リヒテルはそれをさぼり、すべての回のすべての得点に、不機嫌にほかの演奏者に0をつけ、クライバーン氏に満点の25点をつけた。アメリカ人の勝利の見通しにびっくりしてパニックに襲われたソヴィエトの官僚は、ニキータ・フルシチョフ本人に伺いを立てた。「彼が最高だったか?」とその総書記は訊ねた。はい、と返ってきた。「ならば彼に一等を与えよ。」

それは感銘を起こした動きだった。ソ連は突然公平な心を持ち友好的なように見え、核の兵器庫ではなく、その文化的豊かさを示した。しかし、その主題としては、スターリン主義と戦争の年月によって脅かされ凍り付いており、ヴァン・クライバーンのメッセージははるかに深かった。ヤンキー帝国主義者は忘れていた。これは、究極的にロシア型のピアノ演奏をするアメリカ人だったのだ。完璧な技術が高邁な感情表現と合っていた。「彼は我々よりもロシア人だった。」ヴラセンコは語った。その愛情は何世代も続いた。

その雷鳴のようなものは、世界中にこだました。帰国の機上で、彼は自分がタイム誌の表紙に「ロシアを征服したテキサス人」として載っているのにびっくりし、それからぞっとした。その記事は、彼が(牧歌的な)ひどい子供時代を持ち、彼の柔らかいゆっくりとした話しぶりをパロディにしたものを引用されることにひらかれていた、と主張した。「あー、神に誓います。あー、東テキサスの松の林からのヴァン・クライバーンにこのすべてが起こったとはただ信じられんのです。」

高い文化が東海岸か中西部の大きな町からしか来ないと考えるアメリカ人にとって、そのテキサス人の勝利はショックだった。新聞記者がニューヨークでサメのように集まり、ソヴィエトの手先、田舎者、またはうぬぼれ屋を予想した。クライバーン氏は彼らを魅力と正直さで武装解除した。彼は躊躇なくロシア人が好きであることを認めた。彼らはテキサス人のように正直だ、と。彼は、モスクワの包囲されたバプティスト教会に決まって寄付をし訪れたけれども、ソヴィエトの制度を非難することも賞賛することもなく、政治を避けた。

名声は最初は楽しかった。人々は彼の時間を守らないこととフクロウのような習慣に寛大だった。超一流のボストン交響楽団は土曜の夜遅くに予定になかった夜通しの録音セッションに呼び出された。ホーン演奏者以外は皆現れた。彼のキャリアは上がった。

(一部略)

しかし、夕べは早くやってきた。彼は音楽コンクールの時代の最初の犠牲者だった、と英国のピアニストスティーヴン・ハフは語る。ファンは古いお気に入りを欲した。レコード会社は作品を欲した。飛行機旅行は消耗させるスケジュールを可能にした。それにより、発展のための時間はほとんどなかった。彼のレパートリーはほかの有名ピアニストよりも決して狭くなかった。彼はただたまたま偉大なロシアの作曲家を好んだのだ。しかし批判者たちは、たぶん少し気取って、彼の名声と才能は知能の不足を隠したと考えた。真に偉大なピアニストは、豊富なスラヴ音楽と同様に、ベートーヴェン、ブラームス、そしてモーツァルトをマスターすべきだ。
 

アンコール

1978年に、疲れて痩せ、父親とマネージャーの死の喪に服した彼は、休暇を取り、それは半永久的なものとわかった。しかし彼は、面倒なミハイル・ゴルバチョフがワシントンに最初に訪れた時、彼のためにホワイトハウスで演奏した1987年に、意気揚々と大衆の目の前に戻ってきた。より良くするために何もできなかった。彼はすぐにやめるべきだったが、彼が「モスクワの夜」を歌い始めた時、レーガン、ゴルバチョフ、そしてほかの高官たちは涙ながらの合唱団を始めた。1958年の彼の勝利には、より良いフィナーレはなかっただろう。
 

発行日: 
2013-03-09
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